大正14年8月8日 浄土宗楞嚴寺住職田尻龍道が大阪少年裁判所から16歳の一少年を引き取り、境内建物の一室に保護した。少年法の規定で、保護団体「少年高津学園」の認可を司法省からうける。
大正15年10月1日 木造洋館3階建て106坪を新築し、園舎に充てる。
昭和5年4月1日 鉄筋造3階建て97坪を増設、虞犯少年の収容保護と教化が事業の中心。
昭和6年4月13日 大阪府知事より、大阪幼少年保護所の認可を受ける。各警察よりの年少浮浪者の収容に忙殺され、財政難に陥る。朝日新聞大阪社会事業団の辻村又男、浜田光雄両氏に実状を話し、同団の年末同情義捐金から援助を受ける(昭和9年の少年教護法による委託費支給まで続く)
昭和8年12月23日 天皇陛下より御下賜金を賜る。それを基に隣地555坪を購入。(現在の高津学園の敷地)
昭和10年 50坪の2階建ての知恩寮を建築する。
昭和13年 敷地内に地下道を設ける。後に防空壕に使用。
昭和15年6月23日 紀元2600年記念事業として、旋盤14台、シェイパ-1台、ボ-ル盤1台を設置、職業補導を拡充する。
昭和16年12月20日 女児用木造2階建ての報恩寮を増設。
昭和20年6月15日 大阪大空襲で木造洋館3階建て、事務所の大半を消失。
昭和20年7月2日 大阪府和泉市の菩提寺内に園児40名を集団疎開、終戦後大阪市内の食糧事情が悪いことから引き続きここにとどまり、50坪園舎を急造、信太学園と名づける。隣接の陸軍演習地の原野2000坪を国有財産部堺出張所から無償で借り受け、麦、甘藷、野菜などを自作する。
昭和23年7月5日 児童福祉法の施行により、「少年高津学園」を高津学園に改称、児童福祉施設教護院となる。
昭和24年12月27日 財団法人高津学園を設立、初代理事長に田尻龍道が就任。
昭和27年5月20日 厚生大臣より、社会福祉法人の認可を受ける。
昭和28年2月1日 大阪府より養護施設信太学園(定員50名)の認可を受ける。
昭和29年5月1日 終戦処理の一環としての戦災児対策が一段落し、大阪府の要望もあって、教護院29年の歴史を閉じ、養護施設となる。
昭和32年4月 大阪市が民生行政の特別市になり、児童相談所、一時保護所の設置が必要になる。大阪市中央児童相談所が西区阿波座に完成されるまでの2年間当園の一部を大阪市の一時保護所として提供する。
昭和32年6月1日 共同募金、お年玉年賀はがき受益金の配分を受け、鉄筋2階建て(102.5坪)を新設、法然寮と名づけ、ろうあ児の収容保護を始める。
昭和40年5月26日 園舎老朽のため知恩寮、報恩寮を廃止し、国庫補助金、厚生年金事業団よりの借入金、法人拠出金で鉄筋造2階建て256.89坪の高津学園本館を新築する。
昭和44年1月 田尻玄龍が第2代理事長に就任。
昭和47年5月 信太学園老朽のため、国庫補助金、社会事業振興会借入金、法人拠出金で新築する。
昭和50年1月 高津学園厚生棟(厨房、食堂、職員寮)を新築する。鉄筋コンクリ-ト4階建て延べ床面積610.33平方メートルで日本自転車振興会、大阪市補助金、社会福祉事業振興会借入金、自己資金で新築する。
平成7年9月 法然寮の老朽化による改築と新規事業としての「知的障害者更生施設知恩寮」を併設するため、国庫補助金、大阪市補助金、自己資金で新築する。12月1日に知恩寮を開設する。
平成13年10月1日 地域小規模養護施設月影寮を設置する。(定員6名)
平成17年3月28日 信太学園園舎を国庫補助金、大阪府補助金、自己資金で2階増築等の増改築する。
平成21年10月1日 知恩寮を障害者自立支援法に基づく障害者支援施設に移行する。
平成22年12月2日 田尻達朗が第3代理事長に就任。
平成24年4月1日 改正児童福祉法・自立支援法の改正により、ろうあ児施設を福祉型障がい児入所施設に移行する。